窓のこちら側。そちら側。

ある日の朝、
スタジオ前の庭に空から落っこちてきた
ちっちゃなスズメの子。

窓のこちら側から外に出ると
岩の側の土の上で震えている。
スズメは人間が触れてしまうと匂いが付くことで攻撃されたり、
仲間外れにされてしまう。
それを知っているだけにどうすることも出来ない。

ビニール手袋をはめて安全な場所に移動させるも、
それから間も無く
ちっちゃなスズメは息を絶えてしまった。

さっきまで動いていたのに。
さっきまで親鳥が心配そうに鳴いていたのに…。
目の前の小さな命の終わりに
呆然と立ち尽くすしかない状況。

その数秒後
背後にまた何か落ちてきた。
「え!?また???」
それはまたしてもちっちゃなスズメ。

それは空からではなく
当たり前だけど巣が屋根の上にあって
そこから落ちてきている。

でも何だか私には
それが空から落っこちてきたように感じてしまう程
続けて起こる出来事に
ただ立ち尽くし呆然としてしまうばかり。

そして数分後
2番目のちっちゃなスズメも息が絶えてしまった。

自分がちっちゃかった頃
「獣医さんになりたい」そんな夢を持っていたのだけれど
獣医さんは動物を助けるだけじゃなく
助けられない命もあると知り
幼心に自然とその夢は薄れていったように思う。

命って一体何なんだろう?
お腹に宿している時から子を守り、
生まれてしまえば勝手に育つものでもなく
食事を与え、安全に配慮し、ようやく独り立ちをする。

鳥の世界では
ある程度成長すると飛ぶ練習を始める。
だからきっとこれは飛ぶのに失敗したのかも知れない。
もしくは飛ぶ練習ではなく
ただ単に巣から落下しただけなのかも知れない。
どちらにせよ、地上数メートルで育てるには常に危険がある。
どうにかならないものなのか…
落下して死んでしまわないように。

でも、例えば地面に近い場所に巣を作ったとしても
きっとそれはまた別の危険が潜んでいるわけで
結局はどこにいても完璧に安心な場所なんてない。

「儚い命」
こういう時にこの言葉を使うのかどうかは
わからないけれど、私の頭にはこの言葉が浮かんだ。

「儚」(はかない)は「人」の隣に「夢」(ゆめ)と書く。
「夢」という漢字の語源は元々暗いとかぼんやりという意味なのだそう。
人+夢=儚
「儚い」とは人間がどうすることも出来ず
ただぼんやりと佇む様を表しているのかも知れない。
以前、自分がお腹に宿した新しい命を失った時
似たような感覚になったのを覚えている。
「今まで、命が確かにここにあったのに…」と。
どうすることも出来なくて、その状況を受け入れることで精一杯。
しょうがないと思うしか、その時の自分に出来ることはなかったように思える。

ちっちゃなスズメに対しても
どうすることも出来ず
ただそれを見守るだけの時間だったけれど
人の手を加えることの出来ない
加えられないからこそ
生きているその一瞬一瞬が美しいものなのだと
自然界の生き物を見て思う。

都会の小さな庭でも
目の前に自然があることで
日々生き物の生と死を目の当たりにする。

息を絶えた、それは元々息があり
確かに生き物が存在していた証。
目の前で起こること全てに何か意味があるのだとしたら…

鳥が巣を作れるような自然を
この先もずっと残してあげること。
窓のそちら側を大切に守ること。

庭の自然を眺めながらのレッスン
そんな贅沢な時間を保つことは
同時にそれを残すことであり
私たち人間だけでなく
生き物たちにとっても大切なこと。

レッスンの最後に
自然の景色を見つめる時間は
「今確かにここにいる。」と
自分自身が気付く「生きている証」でもある。

自然界の儚い命の存在を知り
「生きること」
その意味を深く考えなくても
自然と心に答えが見えてくる。

「今日も大切に与えらた命を使おう」
そう思える時間を
スタジオの窓のこちら側から自然を眺め
与えられていること全てに感謝しながら過ごす時間。

そんな時間も
もしかしたらきっと
とても儚いものなのかも知れない。

だから「今」を大切に…
そう思う窓のこちら側。

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